作品解析 - MOON.

作品解析 - MOON.

 1997/11/21に、Tacticsから発売された美少女ゲーム「MOON.」についての作品解析です。

初稿:1999/9/20
改訂:2001/11/17
再改訂:2006/2/1

 今回の再改訂については、改めて作品をプレイはしていません。単に文章の内容を見直しただけです。

インデックス

[1] 解析はじめに
[2] Main Story 1/3
[3] 宗団「FARGO」とは
[4] Main Story 2/3
[5] タトゥによるクラス分け
[6] MINMESとDOPEL
[7] 不可視の力
[8] 加入礼
[9] なぜ痛みを与えるのか
[10] Main Story 3/3
[11] 銀髪の少年
[12] お花畑
[13] 声の主=月との対決、さかさまの世界
[14] おわりに
[15] 解析あとがき(再改訂の挨拶)

[1] 解析はじめに

 かぎりなく少ない予算の中で作られたと言われるTactics.の第2弾作品「MOON.」は、非常に荒削りな作品です。「MOON. Renewal」で、システム面の粗が無くなったとはいえ、シナリオの演出そのものが粗いのです。ここで雑と書かないのは、その中にシナリオライターの麻枝さんの芸が見え隠れしているからです。
 ゲーム内容は、萌えとは程遠い、「ただただ心が痛くなる」物語です。それゆえに、Key系のユーザの中には忌避する人も居るようです。私も最初、エロチック・シチュエーションでも燃えなければ、ちくちくと刺さる恣意的な展開には苦笑しながらプレイしていたのですが、不思議と心に惹かれるものを感じ、結局のめりこみながら一気にクリアしてしまったものです。

 この惹かれる要因は何だろうと、当時、雑誌やホームページのレビューをいくつか探してみましたが、この作品の独特さを形成しているその世界観とモチーフについて触れている所は殆ど見つかりませんでした。その数少ない中の一つとして、「E−LOGIN」誌は場面と行動の意味、いわゆるモチーフについて解析を試みられていましたが、私には「お花畑」の部分も含め、満足の行くものではありませんでした。これは、モチーフをそのままテーマと結び付けるだけで、世界観については殆ど顧みられていないという、アプローチの失敗ではなかろうかと考えました。この独特な世界観にどういう意味・意図を持たせていたのか、これを明らかにすることで始めて作品をほんとうに理解する事ができるようになるのだ、と私は思ったのです。

 もちろん、全体としてこの物語は少女達、とりわけ主人公的存在である郁未の心の成長を描いた物語であることは間違いありません。そんな心の成長プロセスを追っていくのも解析としては面白いのですが、これから始めようとするのは、先に書いたように世界観やモチーフの分解を行うもので、つまりは麻枝さんがどのように考えてこの物語を作ったかを推測することを目的としたものです。
 皆さんにとって興味深い考察もあることかと思いますが、私は麻枝さんの昔のページをはじめ、Tactics-Keyのページは見ていません。情報不足による誤解もあろうことかと思います。あくまで一個人の解釈であるということを念頭において、読み進めていってもらいたいと思います。
 この改訂版を書いている今は既にAirが出た後ですが、このページはMOON.単体で完結させておきたいので、Airとの比較考察などは一切行いません。

[2] Main Story 1/3

 物語の流れを改めて整理しておきましょう。主人公は郁未という少女です。母親と二人で不自由無く暮らしていましたが、ある時母親は娘を置いてFARGOという宗団(→教団)に行ってしまいました。数年の後帰ってきますが、元通りの生活に戻れるとの彼女の喜びもつかのま、母は謎の変死を遂げてしまいました。郁未は復讐のために、単身教団に潜入することにしたのでした……が、その時に似たような理由でやはり潜入しようとしていた二人の少女に出会います。こうして三人で、FARGOについて調査をすることになったのです。

[3] 宗団「FARGO」とは

 作品の舞台となるのは、「FARGOという宗団の施設」とやらです。マニュアルにも、ゲーム中にもそう書いてあります。
 しかし、はじめに「宗団」という説明についての誤りを直しておく必要があります。そもそも「宗団」という用語は一般的ではなく、限定的にキリスト教の団体に対して用いられているくらいです。私たちはすぐに「宗教団体」の略であると感じた事と思いますが、そもそもFARGOは宗教団体らしくありません。この当時はまだオウム真理教の余波があったものですから、無意識に連想してしまい疑うことなく飲みこめていたかもしれませんが、ゲーム内容を見るに、怪しさはともかくとして、表面的に宗教めいたものは殆ど出てきていないのです。
 主人公や登場人物が訳の分からない神にお祈りしたり、それを強制されていたかというと、そんなシーンはありません。不可視の力を得るために鍛錬をしているだけです。もちろん麻枝さんは制作のモチーフとして、オウム真理教のそれを用いていたとは思いますが。恐らくこれは、カムフラージュとして、宗団という言葉を用いたのだろうと推測します。

 では、宗団でも教団でもないならこのFARGOという組織は何なのだろうかという事になりますが、私としての解釈は、これは「(秘密)結社」だということです。私はこの点に疑いを持っていません。
 結社について、はっきりと知っている方も少ないと思いますので、一応辞典から正確に紹介しておきましょう。

【結-社】
特定の多数人(自然人または法人)が,特定の共通目的のために継続的な
結合をなし,組織された意思形成に服するもの

平凡社 世界大百科事典より

ゲームをある程度プレイされた方は、これがFARGOに合致することを理解していただけると思います。結社の歴史は古く、紀元前から世界各地に存在していたと言われています。もっともこの頃の結社とは、文化の形成上、一族が生きぬく為に必然的に生まれてきたものであり、現在で言うところの犯罪組織的結社とは意味合いが違うものです。そしてFARGOはそうした古代の結社をモチーフとしているように私は感じました。理由については後述します。
 では、FARGOはいかなる結社なのか。それを一言で答えるには難しく、色々な箇所から解析を続けていき、それでようやく全貌が分かるようになると思います。ひとまずは結社については措かせてください。
 つづいて、「FARGO」という名そのものについて考えてみます。麻枝さんはこれをフィーリングやイントネーションで考えたかというと、そうではないようです。日本語ではなく、英語で受け取りましょう。「FAR+GO」=「遠くに+行く」。別に遠足に行くわけではありません。FARというのは物理的な距離ではなく感覚的な距離をさし、「遥か遠くの」、即ち想像上の「彼方の世界」を意味する言葉なのです。そんな世界に行く、つまりは「異界への旅」という意味がこの言葉に込められています。これは極めて重要な事ですから、頭に入れておいてください(ONEを思い出す人もいるかもしれません)。
 なお、「FARGO」という同名の映画が実在し、その映画ではFARGOという言葉が、「気がふれる」=「狂う」という意味を持っているようで、なかなか興味深いのですが、鷹月はその映画は実際に見ていないので、曲解を避けるために映画の詳細について触れるのは止めておきます。

[4] Main Story 2/3

 三人ははじめに、不思議な部屋に連れられます。腕に何か焼きごてのようなものを押し付けられたのでしょうか、腕には階級の数字が施されていました。郁未はAランク、由依はBランク、晴香はCランクとありました。そしてランク毎に居住区が変わると言う事で、3人は別れ別れになってしまいました。
 三人は入信者になりすまして、不可視の力を得るための精神の修練をはじめます。それは、心の思い出を引き出す「MINMES」と、醜い自分の姿を引き出す「ELPOD」と呼ばれる機械によって行なわれるのでした。

[5] タトゥによるクラス分け 2/3

 不思議な部屋に入るとき、無機質な扉をくぐったと思います。扉については後に「お花畑」について触れる際に詳しく述べる事にしますが、色が青でも赤でもなく、黒という事には気を留めておいてください。単に「古めかしい」とか、「いかにも固そう」とか、そういう印象を与えるためのものではないのです。これこそが文字通り、「異界と現実世界」との扉なのです。(壁に色がないのもやはり同じ意味があると考えています)
 その中で郁未は、腕に烙印(タトゥ)を押されます。「A−12」と。番号もそうですが、行為そのものも興味深いです。
 古代、その結社に入ろうとする者にその証として腕に烙印(刺青/焼きごてどちらもあります)を付けることがしばし行われてきました(古代を過ぎた宗教にはこの風習はほとんど見られなくなりました)。ランク付けそのものに関しては、結社でも宗教でも共に見られますが。
 それはともかく、このランク付けの意味は、ゲーム中においては「すでにどれだけ心の痛みを味わったかで決まる。Aに近いほど、不可視の力を正常に得ることができる、神に近い素体を持っている」と説明されています。神という言葉が珍しく登場してきていますが、これ以降突然見なくなります。ここでいう神はたぶん、宗教で言う所との神とは意味合いは違うと考えます。それは古代のトーテミズムの時代における自然神の事で、言いかえると獣の事です。少し穿ち過ぎたように思われるかもしれませんが、その論拠もこれから明らかにしていきます。
 番号も番号で意図的もいいところです。12番目、それはキリスト教の「イエスの十二使徒」と対応させているとしか思えません。その最後の一人というのは即ちイエスを裏切ったイスカリオテの背教者ユダの事です。
 それを証明できると思われるのは、物語終盤、声の主と対峙してすぐの会話です。

主「戻ってきたか……だが、それは聖者などではなかった……」
郁未「背教者の帰還」

 このテクストの意図は何でしょうか。実はちょっとカムフラージュしているだけで、声の主の存在について考察すれば、この意図については容易に想像付くものでした。主についての解析はもう少し後で行いますので、ひとまず先を続けていきましょう。

[6] MINMESとDOPEL

 前半のメインは「MINMES」と「ELPOD」という、性質の違った二つの「鍛錬」によって展開されます。性質は違うとは言え、ともに心の奥(無意識)へ潜っていく試行です。
 MINMESは心の中に残る「思い出」をフィードバックさせ、ELPODは自身が封じていた忌まわしい思い出を曝け出します。ここまで作為的にはできないとはいえ、現代でも精神病の治療には同じプロセスを取ったりもします(ユング派の心理学者などもそうですね)。
 各試行すべての、麻枝さんの意図を推測して見るのも面白いので、要望でもあれば考察してみても良いかと思いますが、現状は心理学についてかじった程度の人間が行うには多少の曲解を免れないかなという恐れから避けておきます(^^;)。
 ともあれ、これらの施行の結論として、郁未は苦しみつつも、心の面で徐々に成長していきます。自分が独り立ちしていたようで、実はまだ殻の中に居たいと思う願望があったという事と、そして嫌な事を消化するのではなく単に塞いでいた、心に障壁を作ることで解決した気でいた……という事に気がつくのです。
 ELPODにおいて、目つきの悪い郁未の分身が登場してきます。鍛錬名をひっくり返せばDOPEL=分身(Doppel)、ですね。この女性ですが、郁未がひとつの障壁を克服するごとに、嫌らしさがなくなっていきます。彼女は助言を与える存在なのです。ゲームの終盤においては助けてくれさえもします。彼女については後にもう一度述べる事にします。
 MINMESという名前の由来については長年の謎でしたが、ある方から指摘いただいたのですが、アナグラムすることでENIMMS=アニムスと読めます。私が[11]において推測したことを裏付ける結果となったようです。まあどっちかと言うと彼女が見ていたものはアニマに属するものだという気がするわけですが。

[7] 不可視の力

 そろそろ、作品のキーワードとなっている「不可視の力」について触れてみたいと思います。作中のキャラクターたち、つまりFARGOの入信者たちはこれを得るために来ています。それは特殊能力です。
 具体的にどんな力なのかは明確にされていませんが、ゲーム中で得られたものから列挙するに、知恵、精神力を物理的な力に変える能力、精神のままで相手に働きかける能力、肉体の強度を化物のもつそれに変える能力……といったところでしょうか。それは良いとしても一つ不思議に思うのは、力はそもそも「目に見えないもの」なのに、敢えて「不可視」と付け加えている理由です。単なる超能力だとイメージに合わなかったから、もっともらしい名前を付けたのでしょうか。鷹月はここにも麻枝さんの意図を感じます。しかし、ゲーム中では不可視の力の正体は明らかにされるものの、不可視というそのものの意味は一言も表には出てきません。そこで文献に頼ることにします。

 英語では Invisible(=見えない) と書きますが、この語源たるラテン語を見ると、「見えない」だけでなく、「神」「霊界」、そして「見えなくする、盲目にする」という意味が現れてきます。霊界や神が人には見えないのはまぁ納得のいくところとして、この「盲目にする」については注意すべきです。
 昔話において、視力を失うということは、一時的に生者でなくなることを指します。逆に視力を得ることは、死人の持つ能力を得て生まれ変わることを意味します。つまり、「死人の持つ能力が不可視の力の実体」と言えます。この説明だけだとあまりに突飛過ぎて理解できないと思いますので、これまでに述べてきた事を少しまとめてみましょう。

 「FARGO」=「異界」と前に書きましたが、異界とはまた昔話における「死の国」であり、心理学における「自己の無意識の世界」の事です。扉や壁に色がないとも書きました。これは死の国の一般的な特徴です。幽霊に色がない事からも連想できると思います。(心理学的には、夢の世界がほとんどがモノクロである事もこれに対応づけられるかもしれません)。
 預言者、占い師、狂人はしばし盲目と言われています。彼ら、彼女らが見ているものは違った世界です。自閉症の人たちも目は見えますが、違ったものが見えるといいます。ここで書いておきたいのは、預言者や占い師、古代のシャーマンと呼ばれる人達は、元から盲目なのでもなく、他人によって盲目にさせられるのです。神の世界に身を置かせるために、です。
 「MOON.」の本題はどんどん遠くなっています。ちゃんと戻りますから、次の項をしっかりと読んでください。謎だらけのこのゲームを理解するに重要な部分です。

[8] 加入礼

 ウラジーミル・プロップという学者は、魔法昔話の起源の多くが、古代の結社で実施していた「加入礼」に基づくものだと論文で述べています。この加入礼の様式は文字の無い時代に栄えたもので、完全な様式は保存されていません。しかし次の事は明らかになっています。

・加入礼は基本的に男性が受けます。
・加入礼を受けて、一人前の大人となります。また、加入礼を受けていない人とランクが違う存在になります。
・加入礼は、森の中の大きな家で行なわれます。ただしその存在、場所は秘密に包まれています。
・加入礼を受けるものは、まず体を洗います。洗うと言っても、必ずしも綺麗にすることではありません。においを消すことが目的です。生者の持つ匂いが残る限りは加入礼を受けることはできません。
・体および眼に石灰を塗られます。色を失う、また、視力を失うと言う意味は先に述べました。
・動物に食われたり、人間によって食われ、骨だけの存在となります。……という事はありませんが、そうなったものであるかのように装うのです。いわゆるイニシエーション(通過儀礼)であり、「ふり」だけをするのです。ただし、なぜか殴られたり蹴られたりします(一度や二度ではありません)。これは後で述べます。
・これらの暴行などがあり、加入礼を受ける男子の数パーセントは死亡します。
・復活の儀式らしきものをします。目は洗われて見えるようになります。これで加入礼自体は終了です。
・加入礼は終わった者は何らかの力を祖先(トーテム氏族、動物と言っても良い)から得ます。
・結社に入った者は、集団でしばらく大きな家の中および周辺の森で暮らします。帰る事は許されません。この家は女性が入る事は許されません。ただし、女性を招き入れる事はあります。その女性は男性たちに尽くします(どのようにかは推して知るべし)
・彼らは色々な教えを受けます。
・大きな家での生活を終えたとき、故郷に帰ることを許されますが、家族と親しむことは許されません。生まれ変わった事により、すでに親でも子でもない関係になったからなのです。実際、新加入者たちは肉親、兄弟の存在を忘れます。
・彼らは地域を守る特別な民として生きて行く事になります。故郷に帰ったあとは結婚を許されます。

 個々に詳細を書き始めると枚挙にいとまがないので、すべて省きます。鷹月がこれを提示して何を言いたかったのかというと、FARGO.に入って出てくるまでの一連の物語は、この加入礼の一連のプロセスに対応できるのではないか、という事です。どのように対応できるのか、プレイされた人が個々に考えてみてください。両者が明らかに違いすぎて逆に対応できるのは、「男性ばかり」が「女性ばかり」に置き換わっていることくらいですね。もっとも男性の加入礼に相当する、女性の「秘儀」があるので、違いを意識する必要はないと思います。
 加入礼については、「魔法昔話の起源/ウラジーミル・プロップ」の本に詳しく載っていますので、興味を持たれたなら探してみてください。今回の評論は、この視点に基づいて行なっていますので。
 私は別に、麻枝さんがこの「加入礼」をモチーフとして使ったとは断定しません。しかし私はこれこそが、「MOON.」の世界観を解析するのに最も重要な手がかりになるのではと考えたのです。(実際Airなどでも明らかなように、麻枝さんは物語の中に多くの民間伝承・神話をおりばめていますしね)
 これを踏まえて、ようやく本題のモチーフ解析に戻ろうと思います。

[9] なぜ痛みを与えるのか

 痛み。痛み。ココロが痛いの。

 郁未たち3人と、もう一人の少女(鹿沼葉子)も含めて4人。彼女達のエピソード、そして彼女達がFARGOの中で受けるものはあらゆる形の「痛み(苦しみ)」です。ほのぼのとした出だしも、単に最初が幸せであればあるほど不幸にしたときの衝撃が大きいという目的のためだけに用意されています。単なる悲劇物語ならこの手法は理解できますが、このゲームは別に悲劇物語ではありません。

 痛みの直接的な例としてはCクラスを見れば充分でしょう。毎日つねに、犯されつづけるのが日課となっています。糞や尿も垂れ流しで、片付ける場所が存在しません。もちろんAクラスであってもエッセンスは同じで、ひたすら心に痛みを与えてきます。この痛みを与えるという目的は何か……ゲーム中でも「不可視の力を得るために必要なプロセス」と触れられていた通りなのですが、痛みを限界まで与え(ただし苦痛そのものには耐えなければいけません)、放心そして発狂させることなのです。プロップ氏の書籍に良い資料があるので紹介しましょう。

・シュルツは次のように述べている。加入礼において、少年は極めて恐ろしい試練、拷問を受ける。こういった事が長く、時には数週間続き、落下感を伴う闇、恐怖を伴うために新加入者は死んだものと見なされる状況が生じたに違いない。一時的な精神錯乱を引き起こし、そのため新加入者はこの世のあらゆる事を忘れた。
・少年達は自分の先生の尿を飲まねばならなかった。動物の糞も浴びせ掛けられた。痛みに耐える事と同時に、嫌悪の情に打ち克つことが要求された。このような場合、錯乱に陥るのは必然的である。ところで錯乱するとは、霊が身体の中に入り込む事を言う。
・体の切り刻まれた死人を新加入者たちに見せた。
・ギリシア神話のオレステスは、母殺しの結果、狂気に陥った。

 最後の神話を除いては、実際に加入礼の際に行なわれたこととされています。これを見ると、鷹月はどうしてもMOON.のシナリオとの間に酷似するものを見出してしまいます。加入礼がその当時の共同体の形成上必要だったとしても、私たちにはこの行為は到底理解できないものなんでしょうけれど。ともかく錯乱してしまえば、あとは結社の思うように意識を操作することができます。ゲームにおいても、FARGOは自分たちの意のままに動く、不可視の力を持った戦士たちを作るのが目的だったということと繋がるのです。

 痛みのモチーフの半分はこれで解決されたと考えます。不可視の力を得るための鍛錬は、加入礼をなぞったものである、ということ。
 解決されていないもうあと半分は、この苦しみをわざわざユーザに突き付ける理由です。心理学サイドからは書きません。ただ、物語として郁未には不可視の力を得させる必要があり、郁未はユーザの分身(的存在。ユーザが郁未の裏の淫乱さに辟易し感情移入できないとしても、郁未の行動を選択する以上は、やはり分身なのです)ですから、そのプロセスを擬似体験してもらうために、ユーザにこれほどまでに痛いシーンを見せつける必要があったと私は考えています。

[10] Main Story 3/3

 郁未のあてがわれた部屋には、名前を持たない銀髪の少年がいました。敵とも味方ともつかない、油断ならないけど安心させられる存在。忠告をくれたり、助言をくれたり……しかしその彼の正体は、地球外の生命体なのだという。彼は最後の時まで秘密にしていたのですが、彼と交わった者が最終的に不可視の力を得ることができるというのです……。

[11] 銀髪の少年

 さて、評論も半ばを過ぎました。そろそろ「銀髪の少年」についての考察に入る事にします。
 彼の存在についても避けては通れません。郁未の助言者であり、後半では拠り所となった少年。「雫」で「瑠璃子と交わった者は電波の力を得る」というのと、「少年と交わった者は不可視の力を得る」というのとはぴったり対応できてしまいますが、これは偶然の一致であり拠り所は違います。
 一見この展開「彼は力を持った獣のエッセンスを持っていて、彼女の中にそれを放出する事により、彼女は力を得る」なんて簡単な解決をしているようにも見えますが、これではいままで痛みをわざわざ与えてきたことへの回答にはなりません。「最終段階として」という補足も納得がいくだけの理由になっていません。これはやはり彼は個性を持ったキャラクターとしてではなく、郁未が成長するために必要な「存在」という抽象的なものとして捉えるしかないのです。そしてまた、彼はいくつかの機能を複合して持った存在です。以下にその3つを紹介していきます。
 その一つ目は、彼が物語中の「援助者」にあたると言う事です。これには特別な意味があります。昔話において援助者の機能は主人公に魔法の力を授け、また主人公が直面している問題を解決する手引き(障害の助力)をする事にあります。魔法の力とはこの場合「不可視の力」と言う事になりますね。「障害の助力」の具体的なケースはこのゲームでいくつも見られますが、その最たる者はやはり、郁未を試練に勝たせ、FARGOから脱出させる役割だったと思うのです。
 二つ目は、彼がトーテミズムにおける神(獣の神)の擬人化であるということです。ストーリー上では彼と交わった後、郁未の身体に変化が起きます。自分が獣になった夢を見るのです。これは後に夢ではなく、意識がひとりでに抜け出した現実の出来事だったと知るのですが……。なんで化物なの?と思った人もいる事でしょう。「痕」のエルクゥが獣化できるのと同様、「そういうものだから」と割りきるには不自然な部分が残ります。これは昔話の「変身物語」の類を見ることによって解決できます。先に述べた通り、トーテム神である少年の一部を郁未が取りこんだことにより、獣の力を手に入れるのです。フレイザーの「金枝編」や、プロップの論文では以下のように述べられています。

・人間は死ぬと、トーテム神になるとされた。これは実際的な死もそうだが、加入礼における一時的な死も対応できる。すなわち加入礼を経て、人間はトーテム神に一部同化するのである。
・昔話でははじめ、獣に飲みこまれる事によってその獣の力を得ている。しかし時代が経つにつれてこのモチーフは変化した。獣の要素の一部を持つ、あるいは取りこむことで、その獣の力あるいは獣になる能力を得ることができるようになるのである。

 これを見ると、郁未の獣化(あるいは獣の力)に納得できるようになります。少年をトーテム神と見たてる事そのものはなんの不思議もありません。ゲーム序盤の情報「Aクラスは素体として神に近い」「Aクラスは最も不可視の力を得やすい」の台詞から、「神」=「完全な不可視の力を持った存在」が連想でき、つまり神とはあの少年であるということが言えるのです。

 少年の三つ目の機能は、彼が郁未のアニムスであるという事です。これに関しては心理学に立ち入ります(^^;)。人間の心はアニマ(無意識)とアニムス(意識)の調和によって成り立っていると言われています。それぞれ前者は女性、後者は男性の中核となるもので、女性の場合は最初にアニマだけがあり、アニムスを見つけ一時は離れるものの最終的に結びつきを回復して一個の人格を作る……とされています。アニムスを見つけない限り、心は成長できないというのです。

 これはゲーム中では次のように解されます。ずっと郁未の心の中には、母の思い出が有り、その中に埋没したいとも考えています。母とはアニマそのものを差し、またアニムスを否定する存在です。郁未のMINMESに母が出てくる間は彼女の人格(一人立ちと言っても良いです)は完成されていないと言う事になります。最後に母を訪ねようとMINMESに行くと、そこに居たのはあの銀髪の少年でした。単に彼女のお腹の中に子供が出来たとか、そういう物理的、生理学的なものでなくて、彼女の心の中にアニムスが宿ったということを示しているのです。

[12] お花畑

「地下深く、僕たちの足枷となっているものがあるんだ」

 いよいよ、さかさまの世界と並び、全ストーリー中最も「謎」と言われたお花畑の解析に入ります。郁未は少年を救うためにという理由から何故か地下に行きます。この際、同じ階層の道をえんえんと周りましたが、これも、単に場所感覚を麻痺させるためという以上に意図的なものを感じます。これは項の最後に述べるとして、先に到着点について見ていきましょう。

 奥深く、一枚の扉があって、それを開く事がどうしてもできません。しかし、郁未は少年の事を思ったとき、それはすうっとひとりでに開くのです。あたり一面の花畑が広がります。彼女にはその意味が分かりません。しかし何かをしなければいけない……彼女は絶望のままに、花を次々とひきちぎっていきます。しかし途中で、身体の半身が失われた感覚を味わいます。
 少年の死。「私、間に合わなかった……」
 そして、そのまま意識がなくなります。

 このシーンの意味が分からないと、各方面、特にニフティ周りで論議を呼んでいたことがあります。
 扉がなぜ開くようになったのかはすでにこの段階で明白です。その後の展開を見ても、E-Loginの考察で触れられていた通り、彼女が「意志の力」を得たからなのです。意志とはつまりはアニムス(意識)の事です。
 花畑の規模が小さかったら、その色がある事で、現実世界に戻ってきた事を意味したりもするものですが、あの異常さはやはりまだ異世界に居る事を指します。「一面の花畑」とは昔話において、「渡り」のテーマの中での終着点でもある「黄金の国」「常夏の国」を象徴しています。ここに辿りついたということは、すべての障害に打ち勝ったことを指します。完全なものだけが入れる場所なのです。これは彼女の人格の完成を指します。「聖ブランダンの航海」では、ゴールである楽園をこのように書いています。
 そこは美しい樹と緑の草の連なる豊かな土地であり、花の咲き乱れる燦然たる
草原はまるで庭園のようであった。花々は馥郁(ふくいく)と香り、いかにも
聖者たちの住む場所に相応しい。(中略)季節は変わることなく夏で心地よい
季節であり……
(中略)……花は満開である。

「ケルト神話と中世騎士物語」(田中仁彦)より抜粋 
 先に紹介した、声の主の台詞「戻ってきたのは聖者などではなかった」、この「聖者」との対応も完璧です。郁未という名前にまで、この「馥郁」から連想して付けたのではないかと邪推したくなります。

 郁未が花をむしりとる行為は何であったのか。これだけは残念ながらはっきりとした理由が掴めませんでした。神話においては花畑は輝かしきゴールであったはずなのに、彼女にとってはそれは少年のいない、束の間の絶望の世界。この花は何か他にもシンボルがあるのでしょうか、たとえばガルシンの赤い花のような。ここの推測は止めておきます。
 さておき。先述した「聖ブランダンの航海」において、ブランダンは花畑にたどり着いた後は、帰還とあいなります。「MOON.」においても、ぼやけてはいますが、プロセス的にはほぼ同様です。ただし、郁未の場合は最後に「声の主」との対決を待っています。

 少年がお花畑に入れなかったのは彼にアニマがなかったためであり、また少年は間に合わなかったのではなく、彼女がここに到達したからこそ死んだのです。枷とは少年のものというよりは、郁未のものだった……と私は考えています。
 なぜなら、いつでも出れそうだったのに、けりをつけるまでは出ようともしなかった彼女にこそ足枷があったと考えた方が自然ですよね。彼がいなくなって始めて、枷は外れたのです。この時点で郁未はそれに気がつかずに、MINMESに行ってようやく分かります。心の中に出てきた少年の言葉から。

「ここに僕が居たということは、もう既に道は開けているんだよ」
「(中略)行くって……どこへ?」
この夏の、終わりの季節が霞んで見えなくなる場所までね」

 最後の台詞は印象的でもあり、またいままでの考察を認めてくれるに充分な証拠です。先の抜粋と照合すれば分かるでしょう。夏とハッキリ言ってくれるところがいいです。秋ということを言いたいのではなくて、「この異世界から遠く、元の世界に帰るんだよ」と彼は言っているのです。
(象徴的なお遊びとしては、秋というキーワードにも意味があります。Kanonにおける秋子という名前そのものに、彼女なりの思いが隠されているのかもしれませんね)

 なお、地下深くに行くために延々と周らされた回廊(B20Fでしたっけ?)、これは容易に「迷宮」を想起します。「迷路」ではなくて迷宮であり、その特徴は1本道の螺旋構造であり、従って方向感覚こそ迷いこそすれ、分岐が無く誰でも再奥に辿り付ける構造になっています。そしてこの迷宮は、和泉雅人氏の「迷宮学入門」によれば、やはり死と再生の通過儀礼=加入礼を象徴する存在なのだそうです。色々な仕掛けが、加入礼というキーワードにやはり行き着くのです。

[13] 声の主=月との対決、さかさまの世界

 自分のやるべき事を理解した郁未は、自分との少年との共通の「敵」であった「声の主」と対決することにしました。それを隔てるものは何もありません。物理的な壁も、精神的な扉も、彼女の前にはあってなきがごとしです。
 さて、声の主として妖しげな人間を想定していた人は面食らったと思います。確かにFARGOの目的が人を狂気に陥らせる事とはいえ、その狂気の象徴たる月を出してくるとは!そもそも人間と並べる存在としてはメチャクチャすぎます。けれど、郁未は真っ向から対決する姿勢を見せています。彼女にはこの本質が何なのか、うすうすわかっていて、それに勝つ自信があるからです。月はアニマの象徴であり(太母元型)、郁未をもう一度、自分のうちへと引きこもうとしているのです。これは最後の試練であり、彼女の精神に揺さぶりをかけることを目的としています。

「おまえは、じぶんの母親を殺したのだよ」

 彼女はこれを聞いてしまい、まんまと術中にはめられます。時の証人なるものが現れて、「母親は最初から不可視の力を持っていた」だの訳のわからない事をまくし立てたり、その後、郁未の全てを逆さにねじまげてしまったりします。ハジやすのこが出てくる非論理的な「逆さまの世界」、これは一体何なのか。
 出来事については、何か元ネタがあるのかもしれませんが、これは私には分かりませんでした。しかし、「逆さまの世界」と呼んでいる時点で何を意図したものかというのは明白でした。
 実在する秩序ある世界=コスモスに対して、そのネガである存在、これがカオスです。多くの神話に見られるように、すべての母胎はカオスであることを想起しましょう。声の主すなわちアニマの象徴は、郁未をその象徴の世界へと引きずり込んだというわけです。この象徴の世界では、何もかもが現実のネガになるか、あるいは位置付けそのものが喪失されます。民間儀礼における「さかさ儀礼」「転倒儀礼」が参考になるでしょう。
 おそらく、あの逆さまの世界のディテールは関係なく、麻枝さんにとっては、ただカオスである様を出せていれば良かったのでしょう。

 話を戻します。声の主とのここまでの対決において興味深い点は、時の証人の発言と、逆さまの中の世界に出てくる郁未のNo.2の人格であるところのDOPELの二つです。
 時の証人の発言ですが、その前に月はなぜ「母親を殺した」という台詞が効果的だと知っていたのでしょうか。それは郁未がまだ納得できなかったことだからで、私が郁未はやはり母殺しをしたのだと考えます。時の証人の発言は一面真実であって、それを否定したからこそ、さらに泥沼の世界へと導かれる事になったのです。もちろん郁未は、鹿沼葉子のように物理的に母を殺したのではありません。人格の完成のために必要であったプロセス、母(アニマ)からの脱却すなわち精神的母殺しを行ったのにすぎません。これに関しては心理学の本にはいくらでもこの事が出てきますので、調べたい人はどうぞ(^^;

 泥沼の彼女を救ったのは彼女の分身で、見るに見かねて助けに来てくれたのです。
 「いい加減に、目を覚ませぇぇ!」
 結局の所彼女も、郁未の人格形成を助けるための「援助者」だったと言う事が総合的に明らかになります。役割としてはシャドウだったのかもしれません。郁未が実感できないだけであって、内なる心の分身の彼女は真実を知っていたわけなのです。郁未の意識に直接揺さぶりをかけるとはちょっと荒療治な解決方法ですが、その意志の力により、月の呪縛を解いた、というわけです。
 彼女の助力があれば、勝敗はもう決したも同然です。郁未は月を消し飛ばします。
 もうそれ以降の事はいいでしょう。記憶の中の母との別れ(自立)のシーンや葉子さんとの和解、その他エンディングなど、特別語るべき事はありません。
 郁未は終わりの世界から現実世界に帰って来て、新しい未来が始まるのです。

 どこかのサイトに書いてありましたが、アニマの象徴MOONとの戦いにピリオド(.)を打った、ということなんでしょう。なるほど、と思いました。

[14] おわりに(初版、改訂版あとがき)

 再三に渡って書いてきたように、この物語は郁未の人格形成のプロセスを描いたものです。そのために今までに述べてきたような不思議なモチーフを麻枝さんは取り入れたのです。
 これだけのメッセージと、思想を内包させたゲームはいままでお目にかかった事がなかったので(……と、レビューを書きはじめた時は、終ノ空がちょうど発売される直前でした)、私は本当にビックリしたのです。
 とはいったものの、これらは本当に解析してはじめて明らかになる部分が多く、ある批評ページに「心に届けるのはそう難しくはない。ただ、心に残すのは難しい。このMOON.は心に残るものではなかった」的に書かれていましたが、まったくその通りだと思いました。これは麻枝さんが書き手として一流であっても、ゲームの作り手としてはこの段階ではまだまだであった、ということなんでしょう。
 もちろんゲームの特質さえ知ってしまえば鬼に金棒、「ONE」〜「Air」の人気が示す通り、後に実力を発揮した……と言ったところでしょうか。MOON.を見るだけで、後にこれだけの支持を受ける製作チームに成長するであろうと私には読めていました。

 以上、私なりに「MOON.」の世界観およびモチーフを解析してみました。ディテールひとつひとつについては、まだまだ書ける事は沢山ありますが、ひとまずは、このページを読んでくれた人に取ってはそれなりに満足の行く内容になったのではないか?ということで、無闇に分量が多くなるのを避ける目的も含め、このへんで考察は終わりにしておきます。

 長文に付き合っていただきまして有難うございました。最後に、本レビューを書くにあたって、多いに参考になった文献を挙げておきます。

・世界大百科事典/平凡社
・魔法昔話の起源/ウラジーミル・プロップ
・ケルト神話と中世騎士物語/田中仁彦
・迷宮学入門/和泉雅人
・タブーの謎を解く/山内ひさし
・ユングの心理学/秋山さと子
・子供の本を読む/河合隼雄

[15] 解析あとがき(再改訂版の挨拶: 2006/2/1)

 1999/9にこの解析評論をサイトに公開して以降、某巨大掲示板での誘導もあったようで、実に多くの方に私の文章が読まれました。今はもう「MOON.」はレガシー的作品となり、私のこの解析もその役割を終えた感があります。
 当時は、「この意図は……こういうことか?」と暗中模索にて解析を行っていきました。他の人たちが誰も書いていない視点からのレビューです、私の方向性は果たしてどうなんだろうかという思いもありました。しかし今ではもう、この解析は大筋は正しかったという確信を持っています。DOPEL=シャドウとかは若干怪しかったですけどね。

 極めて難解な作品解析を十分に行えた事に満足感がありますが、それよりも、こうしたレベルでの作品解析が美少女ソフトに対して行える、そういう作品が存在したということに嬉しさを覚えるものです。


-鷹月ぐみな



TopPage