GAOGAO_REVIEW_10




10.デミノイドと変異体〜辿り着いた答え〜
Author:鷹月ぐみな / Update: 2014/12/13 10:53:49


a. デミノイドと変異体を追って

 GAOGAO!作品についてのモチーフ解析は既に終えており、最後の欠けたピースを探すために、「ARMIST」「メリーゴーランド」とデミノイドの登場する作品を取り上げて多少の分析を行ってきました。最後の考察の準備が整いつつありますが、デミノイドそのものについては深くは意図的にレビューの方で触れてこなかったため、まずはそこから話を進めていくことにします。

a-1. デミノイドの誕生

 まず、H.MIYABI氏(本節では以下、雅氏とします)のデミノイドについて紹介しておきます。
 言葉は「Demi-n-oid」、これは半分を意味する「Demi」と人型を意味する「Humanoid」の混成語と思われます。何となくSFで多用されていそうな名前ですがGoogle先生に聞いても「あるにはあるけど趣味創作レベル止まり」みたいな感じになっており、雅氏の独自用語と見なしても差し支えなさそうです。
 SF界隈で半分が人間である存在と言えばサイボーグ、バイオロイド、アンドロイド(人造人間、※1)、セクサロイドが有名ですが、デミノイドはそれらとは異なり、生体には基本的に機械を埋め込まず、遺伝子技術によるDNA操作で違う「種」を生み出したものという位置づけのようです。

※1:なお、アンドロイド(人造人間)については、機械化が基本ではありますが
[1] 人間の脳パターンをデータベースとした100%機械である場合
[2] 人間の脳を移植し、それ以外は基本的に機械である場合(どちらかというとサイボーグのカテゴリが適切かも)
[3] 生体人間組織をベースとするも内部はほぼ機械である場合
など様々なバリエーションがあります。ところで「メリーゴーランド」や「銃夢」においてはこのような改造技術が一般化してしまったため、上記[2]のような「脳以外は機械」という状態も人間の一形態と見なすようになってしまい、サイボーグにしろアンドロイドにしろその呼称自体廃れてしまったようです。そういう世界においては脳がオリジナルなものはそれでも「人間」、そうでない存在を「ドール」もしくは「イミテーション」と呼称したりする場合があるようです。

 GAOGAO!の「ラジカルシークエンス」での実験体の生成についてもデミノイドとほぼ同じ説明がなされていました。但しこちらはバクテリオファージを利用したテクノロジーという情報が付加されていました。
 さて、デミノイドにしろ変異体(実験体)にしろ、どちらも人間と動物の混合体であり、これはいわゆるキメラの限定された形態と言えます。キメラの生成にあたっては遺伝子パターンが近ければ近いほど合成の成功率が増すそうで、猫や虎、兎といった哺乳類ベースになるのは自然な流れと言えます。鳥類も出てきましたが。

2種の混合生命体というわけですが、ゲーム中に登場する彼らは見事に両方の性質を兼ね備えています。人間の知力と猫の俊敏性および攻撃性、虎の体力に鷹の羽……。鳥類と哺乳類の結合はまぁ絵空事上でリアリティには欠けますけど絵のイメージとしてはいいですよね。ファンタジー好きの人間は天使の羽に憧れるものですから。
 そしてデミノイド・変異体は普通の人間より生命力が高いことについても大体共通しています。遺伝学においても混血の方が強い種が生まれることは証明されています。「ARMIST」の作品世界では、人間は以前起こした核戦争の影響やらで子供が産まれにくくなっているらしく、それを含めて主人公は「人間は種としてはもう末期だ。やがてデミノイドが人間に取って代わる時がくるだろうな」と言っています。そしてGAOGAO!作品では変異体がまさにそのような経過を辿ることになりました。
 ネオアリストシェルターでカイト以外のすべての人間が死んだ理由については、私のプレイ時の認識では「不明」のままだったような気がします(どこかで原因について書かれていたのかもしれませんが)。シェルターストーリーのモチーフによる死亡、昔話の発端の「欠如」としての死亡と説明するのはたやすいのですが、数を減らし閉鎖的になった人間たちはすでに種族として弱っており滅びゆく存在となっていることの示唆、という見方も十分ありでしょう。カナンの時代における人間の生存数は良く分からないままでしたが10000を切っていてもおかしくない状況に見えました。いずれにしても変異体が人間に取って代わる存在になってしまいました。GAOGAO!はARMISTとの関係性を否定しているとはいえ、ここまで展開が重なっていることをやはり無視できず、だからこそ両者併せて検討しているわけです。

 デミノイドは作品世界において最初は軍事目的の研究から誕生したそうです。これはもっともな事で、一般社会のモラルでは人間を作りかえるような事は原則タブーですから作る事自体できませんが戦争の論理ではタブーなど時代によって簡単に破られてしまいます。人でなくて人より能力のあり、なおかつ人造体であるがゆえに使い捨てにもできうる存在である彼らは、戦争などにおいて非常に使い勝手のいい兵士となるわけですから。研究にかかるコストはともかく、技術が出来上がってしまえばロボットを作るよりもコストが安くそれでいて高性能。唯一の欠点は育てる必要があるため時間がかかることでしょうか。
 変異体も同様に、ラジカルシークエンスの時代においては軍事研究の一環として生み出されています。(この頃は「実験体」)

a-2. デミノイドの束縛

……そのうち、デミノイドの有用性が広がってきます。戦争のための兵士だけではなく、慰安婦や、個人利用等、遺伝子インプリンティングやマインド・コントロールによって、あらゆる人間の欲望に応えるためのデミノイドが生産されました。そして身勝手な人間により、犯罪へと使われることになりました。これが「デミノイド犯罪」です。
そんな中、戦闘型デミノイドのデータを入れられたデミノイドが、些細な過ちによって市場に流れてしまいました。これをきっかけに世界は混迷化していったのだそうです。 この時はじめて、デミノイドの自由意志が許可されました。彼らに意志があることで、人間に準ずる人権が「ある程度」認められました。もちろん、彼らは人間ではなく、あくまでデミノイドでしたが……

(「ARMIST」資料集より抜粋後、編集)

 しかし自由意志が許可されたと言いながら、実際には生産の際にその目的によって、マインドコントロールを組み込まれています。「ARMIST」ではデミノイド犯罪を取り締まる警官にはパートナーとなるデミノイドが与えられるのですが、「マスターに忠実であれ」等といった指令が予めインプットされています。ある人物を愛し続けるよう作られたデミノイドも同様に自由意志を持ちながらもコントロールを受けていました。何だかFSSのファティマみたいですね。
 ところで主人公の鷲羽昇は、自分にあてがわれたパートナー2人のあらゆるマインドコントロール制御を、原則的に解除禁止されているにも関わらず外してしまっています。自由な心を持たせている以上何かに縛られるのはおかしいと。しかしながら作品中において彼のような考え方は世界において少数派です。
 プレイヤーは主人公のこの見解に「正しい!」と賛成したくなるわけですが、実際にその世界で暮らす事を考えたとき、果たしてどちらを選ぶでしょうか?
 我々の歴史においては古くは奴隷制度が広い範囲で実施されていました。彼らは闘いの敗者だったり不浄な存在とされたり、その結果、普通の人間が持つ権利を奪われて強制労働に従事させられたり、無理やり戦わされたり、主人に絶対服従を誓わされたりしました。彼らの地位や安全の保証は国や時代によってだいぶ差異はあったそうで、ローマ帝国下の奴隷においては、身こそ主人に服従ではあったけれどもほとんど一つの職業と化しており、身勝手な理由で主人が奴隷を殺すことは禁じられたりしていましたし解放奴隷の道などもありました。逆にスパルタにおける奴隷にはそのような権利は全く与えられていませんでした。
 啓蒙によってほぼ今の世では駆逐されている(しかし一部残っている)奴隷ですが、当時の知識人がどう捉えていたかと言えば「あって当然の存在」だったそうです。むしろ奴隷は社会システムとして組み込まれてしまい、いなければ立ち行かない面すらあったそです。かのアリストテレスも奴隷制度を肯定した文章が今の世にも残っています。
 それでは奴隷の側はどうでしょうか。それなりに手厚く扱われれば自らの意志で従者として従うこともあるでしょうけれど、やはり横暴な主人もたくさんおり、しかしそれに対して反抗することはできません。表向きは従順を示しながら敵意を抱く奴隷というのもやはりおり、逃亡だけでなく主人を暗殺する奴隷という事例も枚挙に暇がありません。もちろん主人殺しは理由の如何なく死刑でしたが。

 話を戻しますが、デミノイドは人間より強力な力を有することが多く、言ってみれば常に刃物を携帯した状態と言えます。表面的には従順な姿勢を見せていても自由意志ですから、いつ寝首をかかれるかわかったものではありません。人間だって精神錯乱することもあるわけですから。そんな存在であれば、マインドコントロールを施す方が普通だと考えるべきでしょう。ロボット三原則にも人間は傷つけられないように定義されており、これは人間が安心してロボットを扱うための最低条件のようなものでした。そういうわけでマインドコントロールを外した主人公の方が少数派であり異端というのはよく理解できるわけです。

b. 信頼と愛情

 「ARMIST」において、主人公である鷲羽昇のパートナーである二人のデミノイド「ビリー」と「ミリア」はマインドコントロールの類をすべて外されながらも、主人公のことが大好きなようです。それは彼が二人をデミノイドだという偏見なく、普通の人間と同じように接していることが一つの理由として挙げられます。(あとはカッコいいとかそういうよくある感情)
 これに対して悪役側についているデミノイド達は、マインドコントロールなどによって主人を愛することを強制されています。ARMIST本編中、ミリアが「あなたは、自分の意志であの男を好きになっていないのよ!」と言うのに対して、彼女(リィ)が激昂するシーンがあります。
 そんなリィが愛する人であるデイブを失ったあとの行動は、ひたすら彼の名前を呼びながら苦しみ続け、最後には涙を流して崩れます。その様を見ている限り、マインドコントロールがなくても彼女はデイブの事がやはり好きになっていたのかもしれません。なぜならデイブは彼女の生みの親というだけでなく同時にリィを大事にしていたからです。

 GAOGAO!においても、変異体(実験体)たちとの信頼・愛情関係については様々出てきました。ある程度は既に終えたレビューの方で触れたつもりですが、ここでは2点だけ。
 実験体への愛情が欠如していた例がフリッツ・ウォーレンです。ミィもアルファも生みの親である彼には愛されませんでした。ただしミィは伊集院家のおばあさんや柴田佑二によって信頼や愛情を受けることができましたがその機会の無かったアルファはやがて暴走の道へと走っていきました。
 このウォーレン博士の遠い子孫と思われるカイン・ウォーレンも祖先と同じく研究そのものを愛し、自らが生み出したルゥリィに特別な愛情を注ぐことはありませんでした。一方のルゥリィは博士を慕い続けます。が、邪険に扱われています。
 ところが博士の生命の危機に際してルゥリィが身を挺して庇い彼女は命を落とします。博士はありえないとばかりに驚きます。どうやら博士はルゥリィに対してマインドコントロールの類は一切かけていなかったようです。それでも博士を愛し、主人の命を救いました。純粋に彼女の意志による行為であることを自覚し彼は強く狼狽えるのです。結局ルゥリィは死んでしまいましたが、これを機に彼は変わっていきました。ずっと帰らぬ主人を待ち続けたティティという人魚の実験体がいたのですが、ルゥリィを失った罪滅ぼしも含めて博士は彼女を引き取ることになりました。それがルゥリィの気持ちに応えることだと信じて。

 「メリーゴーランド」においても、人間・デミノイドを問わず、もうすぐ死んでいく女性達が主人公にセックスを求めてきます。あとでブライアンは、
「女性は遺伝子レベルで種を残そうという情報がインプットされていて、死を目前にして彼女たちはその本能が働いてこうした行動に出た、などとは思いたくなかった」と振り返っています。あくまで、主人公との最後の思い出を作ろうとしての行動であったと思いたいわけです。
 また、本作のデミノイドのマルダレーヌは最初、人間とデミノイドは決して相容れぬ存在だと主張しています。ところが、主人公が他のデミノイドに助けてもらったりするのを見て、最終的にその考えを撤回します。彼女が死ぬ間際になった時に、
「ようやくマインドコントロールが外れた。しかし、最初からお前を殺すつもりはなかったのだ」と言い残します。ひょっとしたら、キムがヴェインに殴られた時の一件なども、物陰から彼女はすべて見ていたのかもしれません。

 以上、ここに挙げたのは各作品において印象に残ったシーンです。人間だろうとそうでなかろうと、心あるものに偏見なく愛情をかける者はやはり同じように愛される、というのは雅氏の好きなパターンなのだと思います。メリーゴーランドの続編である小説「VESPER」においてもこうした描写が見受けられました。

c. テーマ/結論

 本節どちらかといえばデミノイド側を中心に背後を探っていく形になってしまいましたが、ともあれ、最後の結論を出す時がやってきました。

 変異体にしてもデミノイドについても現実の世界にはいない存在で、虚構的、ファンタジー的な存在ではあるわけですが、それだけではなくこれらの作品においてはメタファー的な存在として扱われています。彼らは以下のような様々なものに置き換えられます。すなわち、
≪集団内での異質な存在の対応、多数派と少数派の間に生まれるもの、強きものと弱きものの関係、人種差別問題、生み出すものと生み出された物との親子の義務や関係、立場の異なる者たちとの愛情問題、社会の持つ偏見や理不尽さを暴き出すための存在、偏見で見られる側から見た人間というものの素顔の暴き出しのための存在……etcetc≫
 こうしたテーマについて描き出すために作者によって生み出された存在であると言えます。このあたりはフランケンシュタインの作品テーマにある程度重なっている気がします。
 が、そういったメタファの仮面を取り去っての解釈だけで終わらせて、寓話教訓みたいな形で締めてしまっては味気ないどころか実は本質を見失う可能性もあります。ここでは素直にファンタジー的な存在として、人間と変異体、人間とデミノイドという関係の中で最後の考察を進めます。

 かつて、雅氏と三峰氏の作品のそれぞれの結論に関して、関連作品をプレイした当時の美少女ゲームレビュー友達であった「蓼原シュン」氏が以下のように分かりやすく表現していました。
 『三峰氏が最終的に共存共栄という理想を描いているのに対して、H.MIYABI氏は矛盾を抱えながらもその中で生きていく、というところに重点を置いてる感じがします

 筆者も蓼原氏の感想に同意でした。
 三峰氏の作品においては人間と変異体という二つの種族が何度も交錯し、時には血を流しあいながらも最後には融和するユートピアを見せて完結とした三峰氏。お互いがお互いを理解しあうというプロセスを通った上で辿りつきやがては一つになるであろう世界。
 一方のH.MIYABI氏作品は、純粋な人間、デミノイドの他にも様々な種のアンドロイドたちが存在し、最終的に融和することはありません。それどころか登場人物は様々な軋轢を抱えています。その中において主人公は彼らの愛憎劇を眺めたり、あるいは主人公の関係する範囲において信頼や愛情を勝ち取ったりしますが、それは世界全体のほんのちっぽけな部分にしか過ぎません。様々な人格が存在する以上、世界は相矛盾した存在であるという世界観の中での生の演出、生きざまそのものの描写。
 似ている存在を出しながらも方向性がだいぶ異なることが分かります。

 人間と亜人間、人間と機械の関係を描いた作品なんて小説、漫画、映画、ゲームに多数存在しています。しかし、ことコンピュータゲームの分野において、これだけ真面目にシビアな問題について取り組み練り込んだ作品はそこまで沢山はないと思いますし、1997年以前となればその数はぐっと減ります。
 美少女ゲームの中にこのような作品が生まれたことは驚きではありましたが、よくよく考えればこうした作品は美少女ゲームだったからこそ生まれたものとも考えられます。しかし残念ながらこうした種のストーリーAVGはその後だいぶ廃れてしまった感はあります。
 単純に「昔は良かった」などと言うつもりはありません。傾向は違うながら現在のAVGもそれなりに楽しく洗練されています。しかし、作品の傾向というものはその時代時代に切り替わっていくものです。90年代の名作は90年代だからこそ生まれてきたものとも言えます。そんな中でGAOGAO!は特別な輝きを放った作品として、いつまでも記憶に留められてもらいたいなと。

 最後に、フォアナインの当時の制作陣、そしてH.MIYABI氏作品の制作陣に、このような素晴らしい作品を世に出してくれてありがとうと謝辞を述べ、長きに渡るこのレビュー本文から筆を置くことにしたいと思います。





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