こうして眺めてみますと、全てでないにも関わらず、この20年で色々なゲーム機とゲーム作品が世に出てきたなあ、としみじみ感じます。
ぱっとですが、若干の補足目的も含めて、文章で簡単に追っていきましょう。
ここには乗っていませんが、ファミコンの前身的機種として、エポック社の「カセットビジョン」(1981年)がありました。それまでは主に、ゲーム機=1つのゲームしか遊べない、というのが主であったため偉大な前進です。なお、ゲーム機の元祖はカセットビジョンなどよりもっと古い所にあるのでご注意してください。このページは、1980年以前のゲームの歴史については触れません。
1983年のファミコンは周知の通り、大ブレイクを起こしました。私も親に買ってもらうまでは、毎日友人宅に遊びに行ってプレイしていたものです。
対抗馬としてSEGAは「マーク3」を1985年にリリースしたわけですが、全く対抗馬とはなりませんでした。うっかりこちらを買ってしまった子供たちは、ファミコンと両方買ってもらうことができず、寒い思いをすることになりました。
ファミコンが一通り子供・若者に浸透したのは1985年~1986年です。1985年のスーパーマリオブラザーズの寄与が非常に大きかったと思います。実際ハードというものはそのポテンシャルもさることながら、リリースされたソフトの出来によって売れ、シェアを伸ばすものです。この観点から行くと、図表の流れには本当はビッグタイトル達を書き記すのが良いと感じるのですが、見にくくなってしまう上に、あくまで「ゲーム機発売年表」というハードからの視点の記事であるがゆえに、ソフトウェアについての記述は最低限の文に留めることにします。
ソフトは売れに売れ、ROMの生産が受注に追いつかないという問題を出し、これを消化する目的もあって1986年にディスクシステムが発売されました。同時発売のソフトである「ゼルダの伝説」のおかげでスタートダッシュも順調ではあったのですが、動作不安定に泣かされたりロードが長かったりと不満も多かったハードでした。
しかし、これでROMの需要・供給問題も一気に解決でき、ディスクシステムの未来にニンマリとした任天堂は、「今後全てのゲームはROMじゃなくてディスクで出すでしょう」などと意気洋々と語ったのですが、残念かなこのディスク、記憶容量がそれほど多くなく、そのうちにROMの方の搭載容量があっという間に追いついてしまったため、次第にニーズから離れてしまいました。
ドラクエの登場もあり、ファミコンは益々隆盛を極めていきましたが、その裏で対抗馬「PCエンジン」(NEC、1988年)が登場しました。残念かな質の悪いソフトが多く受けもイマイチでしたが、翌年「CD-ROM^2」のリリースで、多少注目を浴びる存在となりました。この当時のCD-ROMの読み込み速度が非常に遅かった事もありまして、ファミコンからシェアをあまり奪えなかったというのが結論ではあるのですが、CD-ROMによるゲームの供給(650メガバイト)は、今までの「2Mbit、3Mbit……もうちょっとあるとなあぁ」を一気に打ち破る画期的なものでした。
88年から89年にかけてはその他、メガドライブとゲームボーイの登場です。前者は相変わらずファミコンの影を走っていましたが、良質なソフトも多々見られ、そのまま生き延びます。一方のゲームボーイについては説明の必要ない大ヒット携帯機となります。1991年のゲームギアが唯一対抗馬となっただけで、他に全くと言って良いほど携帯機が出てきませんでした。PlayStationが発売されてなお、ゲームボーイはポケット、ライトなどの若干の上位互換を出しながらコンスタントに売れていきました。10年以上生産が落ち込まなかったバケモノと考えると、ファミコンを超える存在であったと言うことも可能です。
しかして残念なのはゲームギア。ゲームボーイカラーに先駆ける事8年のカラー液晶というアドバンテージを持ちながら、カラー液晶ということでのマシンのやむない高価設定に加え、発光発色による電力消費の大きさから携帯しても不便という問題があり、ゲームボーイの牙城を殆ど崩せなかったのです。TVチューナーを出したりと非常に高性能なマシンでもあったのですが……プラスよりもマイナスによって失敗した機種と言えるでしょう。
さて、いくらゲームボーイが人気とはいえ、携帯機と通常ゲーム機は垣根が違います。「CD-ROM^2」が容量にものを言わせた作品をリリースするにつれ、シェアが漸く上がってきました。そんな折に「残念だったな」と任天堂が出したのが1990年「スーパーファミコン」です。容量こそCD系には大きく水を開けられるとはいえ、グラフィックアニメーションの多用でもしない限り、必要のない容量でもあります。それより表現能力の高さ、これがスーパーファミコンのウリでした。「フルカラー」と言いつつパレット16色しか出なかったファミコンは嘘でしたが、SFCは本当にフルカラー機種となりました。スペックの高さとギリギリOKの値段設定が結局SFCの一人勝ち構図をまたも作り上げてしまったのです。SEGAはメガCDを出すもいつものパターン通りでした。テラドライブに至っては「お子様に手の出せない価格、でも大人はPC9801とSFCを買っておしまい」と泣けてくる結果となりました。
SFCは確かに大ヒットしたゲーム機ではありましたが、従来のFC作品の焼き直しも多く、ソフトの値段が高かったこともあり、必ずしも万人に受ける機械でなかったことも付け加えておきましょう。また、中学生でファミコンを始めた人の場合、この前後にMSX2+やPC9801といったパソコンにゲームライフも含めて移行していた人もそれなりに居ます。1991年辺りからパソコンの美少女ソフトの分野が成長していったことも付記しておきましょう。筆者である私もこうした移行派の一人でもあります。(DQ4あたりでFC→MSXに入った)
1993年の「PCエンジンDUO」、特に翌年の「DUO-R」は良い機種でした。しかし性能面が以前のまま貧弱であり、「CD媒体でSFC並みの表現力を。できれば速度も」が望まれるようになってきました。そうして「次世代機」の第一弾、3DOが鳴り物入りで登場しましたが結果はご存知の通り踏み台でした。3DOを踏んでいったのが「PlayStation」、「SEGA SATURN」。この2機は最初は拮抗していましたが、販売戦略にサターンは破れ、雪辱を期した「ドリームキャスト」も結果的にプレイステーションには勝てなかった事は周知の通りです。
ところで、今までのSFC天下はというと、両次世代機の登場と共に一気に凋落していきました。特にプレイステーションの圧倒的なシェアの獲得に対抗すべくリリースしたような任天堂の「NINTENDO64」、バッサリと返り討ちにあったような印象です。それでも「NINTENDO64」が完全敗北といかなかったのはひとえに設定客層と、ポケモンパワーのおかげと思われます。
これ以降の流れは語るまでもないと思いますので、ここで筆を止めておきますが、実に熾烈な販売競争の中でゲームというものは成長しつづけてきたのだなあと感じるものの、PlayStation2がイマイチ受けていない(通称「ゲームもできて、プレステ1との互換性もあって良い感じなDVD」)ところ、ハードスペックの進化が望ましい一線を越えてしまったのでしょう。
スワンカラー(スクウェア気味)VSアドバンス、キューブVSプレステ2に割って入ろうとするX-BOX……今後もハード合戦は荒れつづけることでしょう。
- 鷹月ぐみな
|